著者、鳴海 風氏は、和算に関わる人物を描いた小説として、「円周率を計算した男」、「和算忠臣蔵」、「美しき魔方陣」、さらに、江戸時代の和算の歴史を解説した「江戸の天才数学者たち」を書いている。そして、次の分野として、天文暦学を題材にした「ラランデの星」、「星空に魅せられた男、間重富」を書き、江戸時代の天文学者の歴史を書いたのが本書である。デンソーで生産技術者として活躍した技術屋らしく、現地、現物を尊重して、登場人物にゆかりのある地を訪ねて往時に思いをはせ、現物(漢文を含む古文書を読むのは大変)を手にとって内容を確かめて執筆している。随所にその写真が掲載されている。(例、師弟であった至時と忠敬の墓は並んでいる。)
中心となるストーリーは、麻田剛立、間重富、高橋至時、伊能忠敬の師弟関係で、寛政暦が作られた時代である。麻田は大分県杵築出身の医者で天文学に関心を持ち、大坂へでて先事館を開く。(ケプラーの第3法則を独自で発見したといわれる)その弟子として、入ったのが質屋の息子であった重富と、町同心の息子であった至時である。改暦を考えた徳川吉宗が、重富と至時を江戸の天文方に招聘した。さらに、千葉、佐原の庄屋をしていた伊能忠敬が、51歳になって、第2の人生として天文学を志し、至時の下に弟子入りした。至時の数学、天文学の才能、重富の測量技術、忠敬の実地測量の結集によって寛政暦が完成したのである。
そして、その周りに数多くの関係者が登場する。索引を見ると、200人にのぼる。剛立が大分で交流した三浦梅園(物理、哲学者)、重富の数学の師、坂正永、重富が工夫した垂搖球儀(時計)を製作した京都の職人、戸田東三郎等々。
さらに大坂は文化の街としても発展したが、解剖学の山脇東洋、腎臓の濾過機能を解明した伏屋素狄、元傘職人でオランダ語の天才と言われた橋本宗吉等々、天文学が発展していく中で、多くの分野の人々が関わってきた。そして、年表にもまとめられているが、誰が、何時、何をしたかの歴史がつぶさに、生き生きと描かれている。
また、途中には、どうして暦が必要になったか。4000年、5000年前のナイル川、黄河の文明にさかのぼり、川の氾濫を自然(太陽、月の動き)から予測するためであり、初めは、祭司が作成したことから宗教と関わるようになったこと。時間をどうやって決めたか。例えば、60進法が使われるようになったのは、60が、2,3,4,5,6,10の倍数であること、等のなるほどと判る解説があって、知見を増すことができる。
参考文献が40余りあり、現地、現物と共に、著者の周到な調査力に敬意を表する。
天文学、暦の発展の事実を通じて、日本は、既に江戸時代から、身分を越えた異分野の人たちが、学問と人生を磨き、師弟関係を結び、協力しあって科学技術を築き上げてきたことを学ぶことができた。
当時の科学技術者の努力の姿は、名古屋大学の2008年の坂田研究室の益川、小林博士のノーベル物理学賞、2014年の赤崎、天野博士のノーベル物理学賞にもつながっている。こうした日本の科学技術の伝統を大切にしていきたい。