東日本大震災に伴う原発事故は、日本の高度成長を支え、新幹線をはじめとする高度技術をけん引してきた科学・技術の専門家に対する社会的信頼感を急落させた。製品やシステムが複雑化、高度化していく中で、企業で働く技術者も専門バカに陥らないよう、バランスのとれた専門家にならなければならない。前大阪大学総長、鷲田清一氏の「よい専門家とは」の講演と、前東京大学総長、佐々木毅氏の著書「学ぶとはどういうことか」から、勉強した専門家としてのあり方の一端を紹介したい。
・課題を正しく形成し、解決できる専門家。専門家は、自明の形で「与えられている」問題を、自らの専門知識だけを機械的に適用することによってルーティン的に解決する専門家であってはならない。実際の問題は不確実性、独自性、価値の相克といった「ごたごた」した泥沼のようにみえるものである。問題を適切に構成、確定、デザインして、新しい技法を試し、実践的に解決できる専門家でなければならない。
・理性と感性を兼ね備えた専門家。パスカルのパンセに幾何学的な精神と繊細な精神という話がある。幾何学的精神(理性)は、ものごとを秩序立てて正しく推理できる能力である。一方、繊細な精神(感性)は、澄んだ感覚を持って、ものごとの価値を、正しく率直に判断のできるよい眼をもつということである。これからの専門家は、論理的に説明できる理性よりもむしろ、主観的な価値判断として「感じとる」ものを大切にしなければならない。
・理性の私的活用ではなく公的活用。これは、カントの「啓蒙とは何か」の論文にある話で、理性の私的活用とは、専門家が自分の持つ専門知識を自分の所属する組織、集団のために使うことをいい、公的活用とは、世界市民の一員として使うことである。原子力ムラの専門家は、専門知識の私的活用にすぎなかったのである。これからは社会のニーズの先にある人類のニーズを問う専門家でなければならない。
・パラレルキャリアへの学び。状況の全体に目配りができ、大事なものの本質をつかみ、複合的な問題解決のできる専門家となるためには、専門外の分野とのネットワークを持ち、コミュニケーションのできるキャリアを形成することが求められる。大阪大学大学院の教養教育では、学部を超えた講座が用意されている。例えば、牛肉のBSE問題について、理学部の学生は疫学から、経済学部の学生は貿易から、法学部の学生は日米外交から、文学部の学生はタイムスパンを超えて文明史から、議論したという。教養とは自分の専門、文化を超えて交流し、議論できる知性である。専門家は、自然や社会の総合的な問題に取り組むために、「知る」、「理解する」学びから、「疑う」、「超える」という学びによって、自らの知を広げていく努力を惜しんではならない。
これからの社会に期待される専門家は、問題解決に、既に学んだ固定的な技法を機械的に適用する専門家(スペシャリスト)ではなく、変動する現実世界の問題への不断の目配りと、新たな技法の開発によって、実践に取り組む専門家(プロフェッショナル、「天職」と訳される)にならなければならない。 (杉山 哲朗)